何の意味があるのかと問われようともそこに意味はある

 療養病棟の一角にあるその病室はとても静かだ。寝たきりで意識も朦朧とした人しかいないため、部屋の空気はほとんど動かず、呼吸器や酸素マスク越しに痰の絡んだ呼吸音だけが聞こえる。硬直し奇妙な方向に捻じれた手足。閉じられた瞼、もしくはあらぬ方向を見つめる目。お腹から出た栄養チューブ。
 
 西向きの病室は午後になると異様に日がさすため、避暑地にも関わらず蒸し蒸しとした暑さになる。それでも感染症対策は必要であるため、その部屋にはマスクと帽子、ビニール手袋にビニールエプロンをして入らなければならない。わたしは心理士なのでコミュニケーションができる患者のいないその部屋には滅多に入らないのだが、それでも時折、医師から処方があった時には、ビニール製の帽子やエプロンを慣れない手つきでつけてその部屋に入った。
 
 その病院では、重度の意識障害のある患者にも心理士の処方が入ることがあった。カルテを見ただけでコミュニケーションがとれないため関われないだろうと分かるのだが,処方がありながら一度も会わずに「できません」と突っぱねるのも気が引ける。そのため、処方が入るたび-つまり何週間かに1度-はその部屋に入らなければなかったのだが、正直それはあまり気の進まない仕事だった。
 
 大体、声をかけるやり方は一緒だ。まず、名前を呼びながら本人の視線の先に行き、わたしの姿が視界に入るようにする。笑顔で。「〇〇さん、こんにちは」大きな声ではっきりと。「心理士の○○です、初めまして」肩か手首あたりに手を置き、声の抑揚に合わせて力を軽くこめる。声をかけるタイミングは患者さんの呼吸にあわせることが多い。吐くときに合わせて声をかける。吸っている間は黙る。また吐くときに声をかける
 
 もし反応や表情変化があれば、「聞こえますか?」「ここがどこだか分かりますか?」など質問をする。頷きや首ふりといった意思表示の反応があれば、年齢や住んでいる場所、今の季節などを聞いてみる(口頭で答えられる方は少なく、頷きや首ふりの応答も最初はあっても途中からなくなっていくことが多い)。
 
 目を開いているけど反応がない場合でも一応いくつか質問をしてみたり、ベッドサイドに家族やペットの写真が飾られていればそれを見せてみたりする。時には冗談も。そうしているうちに、それまで反応ない方の表情が急に変わることが稀にあるのだが、そうでない場合は大抵1人で話し、1人で冗談を言い、1人で笑って終わる(同室に看護師やリハビリスタッフがいると恥ずかしい)。
 
 とにかく、反応が引き出せないか一通りの努力はする。そして、反応がある場合でもない場合でも、いつも伝えることがある。「ここが病院であること」「病気で入院していること」「家族も知っており、治療もしており、看護婦さんもいるので安心していいこと」。なるべく優しい声で。信頼できる医療者のような声で。
 
 聞こえていないかもしれない相手に話し続けるのは、時に虚しく、無意味で無価値に思える。「これが心理士の仕事かよ」心の中で呟くこともある。でもいつも想像するのだ。もし聞こえていても反応できないだけだったら。動けない中で恐怖と混乱に怯えていたら。もし自分が病におちいり、朦朧と浮かんだり消えたりする意識の中で、現状が分からず、不安でたまらない状況だったら。どんな言葉を聞きたいだろうか。どんな声を聞きたいだろうか。何と言われたら安心するだろうか。なけなしの想像力だけを手に、虚しさと徒労で心が満たされないように、無言の相手が人格と歴史をもつ1人の人間であることを思い出し続ける。
 
 そしてもう1つ、いつも頭の片隅で思い出すことがある。入職して4年目にその部屋で会った40代の男性患者のことだ。
 
 彼はほぼ全身の麻痺と硬直のために自分で動くことがなくコミュニケーションも取れないと認識されていたが、初めて会ったとき、頷きや首ふりに”意志”があるように思えたため、しばらく定期的に「おはなし」をすることにした。
 「おはなし」は最初の頃は10分もてば良い方だったが(途中で寝てしまうのだ)、少しずつその時間は長くなり、それと共に、首ふりや頷きといった簡単なジェスチャーを通して確実なコミュニケーションできることが増えていった。そうやって過ぎていった数か月後のある日、ふとした思いつきで彼のわずかに動く左手にペンを握らせてみたところ、書字によるコミュニケーションが可能なことが分かった。
 彼が5分ほどかけて書いた最初の言葉は、「いつもありがとう」だった。わたしが震える線のその文字を判読し、「誰に?」と間抜けな問いをすると、彼はクイと鉛筆の先をわずかに動かしてわたしのほうを指し、「ひゅーー」と気管切開のために音のでない喉を鳴らして泣いているのか笑っているのか分からない表情をした。わたしは絶句し、心理士になって初めて患者の前で涙ぐんだ。
 
 「これが心理士の仕事かよ」音のないその病室にわたしの妙にやさしい声だけが空しく響くとき、何度も心の中でつぶやく「これが心理士の仕事かよ」。でも、同時に何度でも繰り返す。これも心理士の仕事だ。これも心理士の仕事だ。これがわたしの仕事だ。