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「異物」の文脈に思いを馳せよー『トラウマの現実に向き合う』の紹介

 この前、1人の他者として尊重されない苦痛、相手の価値観や感情で規定されてしまうことへの拒否感について書いたのだけれど、書いた後に、確か似たようなことについて分かりやすく書いた本があったな、と思って探してみたらあった。水島広子の『トラウマの現実に向き合う ジャッジメントを手放すということ』という本。

 著者は対人関係療法で有名な精神科医で*1、この本は「ジャッジメント」をキーワードに「トラウマ治療に向き合う治療者の態度」について書かれている。「普通の人が体験しないようなこと」を体験している人(トラウマ患者)と関わる際に、治療者側の態度によってどのような問題が引き起こされやすいのかが丁寧に解説された本だ。

 わたしがこの前書いたことはトラウマとは関係のない体験についてなのだけれど、読み返してみたらほぼほぼ同じようなことが書かれていたので紹介したいと思う。*2

 

トラウマの現実に向き合う―ジャッジメントを手放すということ

トラウマの現実に向き合う―ジャッジメントを手放すということ

 

 

ジャッジメントとは何か

 この前書いた「個人の歴史を想像して、その人固有の価値観や葛藤に敬意をもってほしい」というのは、要は「ジャッジメント」しないで欲しいということなのだろう。

 ジャッジメントというのは、ここでは『ある人の主観に基づいて下される評価(p7)』と定義されている。他人やその人生、状況、環境など様々なものに対して「よい/わるい」「すばらしい/ひどい」「親切/意地が悪い」「恵まれている/悲惨」など評価することだ。そして、それは『評価を下す人の個人的なバックグラウンド(パーソナリティ、成育歴、能力、価値観、当日の気分など)を反映する(p7)』。

 著者は、わたしたちは未知のもの、未経験のものに対して不安を感じるため、その対象にジャッジメントを下すのだと言う。わたしたちは、自身の価値観や仮説に基づいて「それは○○だ」とジャッジして、それを「既知のもの」として組み込むことでようやく安心するのだ。それは、自分自身のこれまでの価値観や生き方にスムーズに組み込めないような『自分にとっての「異物」を消化する試み(p81)』といえる。

 

ジャッジメントの暴力性

 ジャッジメント自体は、多かれ少なかれ誰でも半ば無自覚に行っているもので、それ自体は人の自然な行為だ。わたしたちは、初めて出会った物事に対してある程度ジャッジをしていかないと自分自身の価値体系のバランスを保つことが出来ないのかもしれない。

 ただ、著者はこのジャッジメントは様々な問題を孕んでおり、特にトラウマ治療においてはその問題が与える影響は大きいと言う。以下、引用。

 ジャッジメントにはいろいろな面での問題があるが、ここでは特にその「暴力性」に注目しておきたい。ジャッジメントは常に暴力性をはらんでいる。どういうことかと言うと、ジャッジメントは本来「ある人の主観的体験」にすぎないものだが、実際にはあたかも客観的事実のように宣告され、押し付けられるからである。ジャッジメントを下している本人は、「それは自分の主観的体験に過ぎない」という自覚をしておらず、あたかも相手側の問題であるかのように錯覚しているものだ。「あなたはかわいそうな人だ」と言うとき、言っている本人は、本当に相手がかわいそうな人だと思っている。

 ところがそこで下されているジャッジメントは、実際にはある人の主観的体験に過ぎないものなので、ジャッジされる本人の現実との間には「ずれ」がある。ずれているだけでも不快なのに、その「ずれ」を、ジャッジされる側が一方的に引き受けなければならないところが、ジャッジメントの持つ暴力性だと言える。(p7-8)

 著者曰く、トラウマ体験者は圧倒的かつ悲惨な体験をしているが故にジャッジメントをされやすい。

 わたしたちは、想像のおよばないような悲劇的体験をしている人を前にすると、それに圧倒されてどう接していいか分からなくなり、「かわいそうな人」「苦しみを乗り越えた尊敬すべき人」などジャッジしてしまうのだ。そこにはトラウマ体験者への配慮はない。あるのは『どのように関わればトラウマ体験者が最も安心するか、という話ではなく、どのように関われば自分がとりあえず安心できそうか(p12-13)』という視点だけだ。そして、当の本人はそういった扱いに「張れ者扱い」や「距離を置かれるような疎外感」を感じて傷ついてしまう。

 こういったジャッジメントの暴力性は、トラウマ体験者への対応で際立つのだけれど、普段のやりとりにおいても大いに起こり得るものだ。感覚的に馴染みのない生き方や価値観ーそういった「異物」への不安を解消するために人は他者をジャッジする。時に苦笑しながら、時に諭しながら、時に眉をひそめながら。

 わたしが「幸せになれるはずなのに(どうしてなろうとしないの)」と言われたときに傷つき苛立ちを感じたのも、このジャッジによる暴力性を感じたからなのだろう。

 その時わたしは勝手に「幸せになろうとしてこなかった人」「現在、幸せでないかわいそうな人」としてジャッジされ、しかもそのジャッジとわたしの主観的体験とのズレに相手は全く気付いておらず(何なら少しいいことを言った風でさえある)、そのズレをわたしのみが抱えるはめになる、という二重の暴力にさらされるのだ。

 

ジャッジメントを手放すために

 わたしたちは自分の内部に生じるジャッジメントを完全になくすことはできない。しかし、ジャッジをしていることに気づいて、それを手放すことは可能であり、そのためにはトラウマ体験者の『患者の文脈を理解すること』が大事であると書かれている。

 ジャッジメントは自分にとっての「異物」を消化する試みであると言えるが、「異物」というのはあくまでの治療者の文脈から見た「異物」なのであり、患者の文脈から見るとそれは必ずしも「異物」ではないこともある。患者の文脈を理解しただけで「異物」感が消えるものはたくさんある。したがって、患者の文脈を理解することは、ジャッジメントを手放すための強力な手段の一つである。(P81)

 相手の置かれている文脈-これまで体験してきたことや背景として抱えているものなど-を理解することで、「異物」だった相手の価値観や感じ方が「そうせざるを得なかったもの」「その当人にとっては正当であるもの」ということが腑に落ちる。『患者の感じ方の何一つ不適切なものはないということを認めること(p84)』が出来るのだ。

  わたしは前の記事で「わたしの背景にあるだろう歴史を想像して、その過程や葛藤に敬意を払ってほしい」と書いたが、ほぼ同じことだ。

 例え相手の価値観や感じ方に違和感を抱いたとしても、その未知のモノに対する不安に押し流されてジャッジに走らず一旦そこに留まること。この違和感こそ、自分が相手の文脈をまだ十分に理解しきれていないことのサインと受け止め、相手の背景や歴史を理解しようと努めること。これはトラウマ体験者に限らず、自分とは異なる他者を前にしたときに大切にすべきあり方だろう。

 ただ、その実践はたしかに難しい。わたしたちは無自覚にジャッジをするし、気づかぬうちにジャッジをされている。でもジャッジした時もされた時も、そこには相手に対して微かな違和感というのが生じているはずだ。その違和感をどれだけ微細にキャッチできるか、そして、その違和感に対していかにニュートラルな気持ちで直面し続けられるか。そういったことがキーになってくるのではないかと思う。

 

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  ジャッジをしない態度についてはこちらの本の方が詳しいかもしれない。ヒーリングとあるので一見怪しそうだけどそんなことはなく、どんな人に対応する時でも心を平安にするための心の在り方について書かれている。

 

  今回、久々に 『トラウマの現実に向き合う』を読み返してみたけど、やっぱり専門家だけが読むにはもったいない良い本だなと改めて思った。専門用語はほとんど使われておらず、具体例も豊富で分かりやすいし、何よりも人の心の細部を丁寧に描いている。人を理解すること、人を助けるということについて考えたい人にはおすすめできる1冊だと思う。

*1:この方の対人関係療法の本や一般向けの自己啓発本は良いものが多いのだけれど、この方個人はTwitterを見ているとちょっと信用できない

*2:わたしがブログでしたいことの1つは、自分の感覚や情緒をなるべく正確にかつ様々に言語化してみたいということなので、同じような内容でも何度も切り口を変えて書きたいと思ってしまう。