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「なんで幸せになろうとしないの」という言葉のもつ暴力性

 時折、人から「幸せになれるはずなのに(どうしてなろうとしないの)」と言われる。わたしはその度に少し傷つく。

  傷つくのは、それなりの歴史と葛藤をもった個人として扱われていない感じがするからだ。わたしという固有の存在が、相手の価値観や感情で勝手に規定されてしまったように思う。

  「仕事をしていない」でも「結婚をしていない」でも「家族と仲が良くない」「友人がいない」でも何でもいいけど、誰かを「不幸だ」と思ったとき、その相手の「不幸」の背景にあるものに思いを馳せた方がいい。それは空想力と敬意さえあれば出来ることだ。

ほんの少しの空想力と敬意

 誰かのその「不幸」な状態にはそれなりの歴史がある。そしてそれは個人の意志だけで決定されてきたものではなく、個人ではどうにもならない様々な要因(環境や偶然、個人の特性など)が絡み合って成立している。

 人からすれば「なれるはずなのになろうとしていない」と見えたとしても、内実は「なれなかった」「なりたいけれどなれないでいる」「なりたかったけど諦めた」というケースは決して少なくないだろう。個人の意思のおよばない何かに隔てられ、翻弄され、闘って敗北し、そしてその敗北に何とか折り合いをつけ、少なくとも表向きは何事もなかったように自分の人生を受け容れて歩むことを決めた人々。そういう人たちは意外と多い。例え目の前の人がどう見えたとしても、その背後にそういった歴史があるのかもしれないと想像することはできるはずだ。

 さらに言うなら、「幸せになれるはずなのに」と言うときのその「幸せ」と、相手の思う「幸せ」が異なる場合もあるだろう。目の前の人は、いわゆる世間一般やマジョリティとは異なる価値観にもとづいた、独自の「幸せ」の基準をもっているかもしれない。そしてそれは、あなたからしてみれば絶対に理解できない「幸せ」かもしれない。しかし、例え理解も共感もできなかったとしても、その価値観には敬意を払うべきだろう。

 わたしは現在の状態に至るまでの歴史の中でわたしなりの価値観と葛藤を作りあげてきた1人の個人なのだ。固有の悩みと幸せをもった、あなたとは違う他者なのだ。そういうことを想像してほしいし、その過程と現在に敬意を払ってほしい。

ビネット

2年前、わたしの専門領域では高名な先生に仕事と人生に関する相談をした。その際、わたしがある「人生の選択」について話すと、先生は「それはあなたのこれまでの経験からそう思ったの?」と尋ね、わたしが「ええ、まあそうです」と答えると「ああ、そう。…そこにあなたの何かがあるんだろうねぇ」と少しおもしろそうに呟いた。そして別の話題にうつった。

 今でもありありと覚えているということは、わたしにとってとても良い体験だったのだろう。驚くでもなく、過剰に持ち上げるでも下げるでもなく、その選択にまつわるわたしの歴史に思いを馳せ、そこで為されただろうわたしの葛藤と決断を想像し、「そうなんだね」と受け入れる。それは、人生の選択を人から驚かれることの多いわたしにとって、とても新鮮で喜ばしいものだった。

 相手を1人の他者として尊重しているかどうか、というのは些細な言動にあらわれる。わたしたちはそういう些細な言動に無自覚に傷ついたりうれしく感じたりしながら、さまざまな情緒を薄く積み重ねていくのだろう。