やさしいものへの期待とそれに対する警告、ぬいぐるみの話

 懇親会は女性ばかりだった。わたしより若い人が数名と、後はわたしよりも年上の女性たち。みんな同業者だ。

 女性ばかりの会合だとわたしはいつも少しだけ緊張してしまう。嫌われるのでは、と思うのだ。彼女たちがわたしと付き合うメリットは何もないから、変なことを言ったら嫌われてしまうのではないだろうか、いや、もう嫌われているのかもしれない――ここまで明確に意識しているわけではないけれど、うっすらとした不安が常に心のどこかにある。

 懇親会の帰り道、参加者の中で最も年配の女性と最寄り駅が近かったので同じ電車に乗ることになった。白髪混じりのその方はいつも微笑んでおり、この仕事にふさわしい柔らかな雰囲気を身にまとっている。こっちが何を話しても「あら、そうなの」と面白がってくれそうな、あたたかな笑顔。そういえば、会合でこの方がよくユニークな変質者に出会うという話をされた時、誰かが「変質者の人もAさんなら受け止めてくれそうと思うんじゃない?」とコメントをしたらみんなが「確かに」「包んでくれそう」と口々に頷いていた。「包容力のある」「あたたかな」という形容詞はこういう人のためにあるのだろう。

 「ぬいぐるみ、わたしも好きなんです」

 ホームで電車を待ちながら、わたしはAさんに言った。会合で、Aさん一家がぬいぐるみを可愛がっているという話をしてみんなが笑っていたとき、本当はわたしもぬいぐるみの話をしたかったのだ。『わたしも、ぬいぐるみが大好きなんです。昔、買ってもらったものを、今でも大事にしているんです。まるで生きているみたいに思うことがあるんです』

 でもわたしにとってそのことはあまりに大切すぎて、少々の風変りさは受け容れてくれるであろうあの場でも切り出すことが出来なかった。Aさんにも言うつもりはなかったのだが、穏やかに笑っている姿を見ていたら思わず口にしてしまっていた。酔っぱらっていたことも影響していただろう。今は二人きりだから、という思いもあっただろう。

 「あらそうなの」と予想通り笑顔のままで対応してくれるAさんを前に、わたしは自分がまるで人懐っこい子どものような気持ちになっていることに気づいた。それは心地よい甘えだ。自分の大切でかけがえのない内面を見せることへの妙に興奮をおびた喜びと、この人はそれを理解してくれるのではないだろうかという無防備な期待。しかし同時に、頭の片隅から警告の声が聴こえてくる。あんまり開くな、セーブしろ、それはきっと迷惑だ。

 こういう時、わたしは生き生きとした対象希求的な気持ちが内部に踊っているのを感じながら、それをそのまま内部に留めておくことに集中する。ぬるま湯と冷水に片足ずつ突っ込んでいるような気分だ。こころの1部はやわらかく、その感触をたのしんでいるのに、他の部分は冷静に、内部が漏れないような言葉を選ぶ。

 結局、わたしはAさんに、ぬいぐるみを買ってもらった経緯という非常に外的な出来事を語ったあとで、「いいもんですよね~」とあくまで一歩引いた感想を述べ、続いて「移行対象」なんていう学術用語までひっぱり出してきて会話を終えた。自然な流れで話題は変わり、わたしたちは互いの経歴という他愛もない話をし、そのうちに駅に着いたので一緒におりて、改札を出たところで挨拶をし左右に別れた。Aさんは最後まで笑顔だった。

 わたしは思いのほか酔っぱらっていたようで、駅からタクシーに乗って(やたらと天気の話に精をだす運転手さんだった)家に帰り着くと、服だけ脱いでベッドに身を投げ眠ってしまった。ふと目が覚めたときは3時23分だった。真夜中に煌々とした明かりの下で目が覚めたときのさみしい気持ちは何だろう。化粧を落として再びベッドに戻り明かりを消したらなんだか急に哀しくなってしまい、仕方がないのでぬいぐるいを抱いて少しだけ泣いた。ぬいぐるみは黒々とした瞳をこっちに向けてじっとしていた。

 

 やさしいものには心惹かれる。やさしいものには近寄りたい。でもいつもどこかで躊躇してしまう。

 やさしいものは私を弱くする。わたしをやわらかくしてしまう。やわやわとなったわたしは境界線の固さを守り切れず、そこから中身が漏れていく。わたしの中身はとても良い。わたしの中身はとても悪い。だからとってもおそろしい。だからとってもおそろしい。