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切実な希望を見つめ続けること

 怒りは二次的な感情、とよく言われる。
 
 個人的な体験としては、怒りは期待や希望の反映だと感じることが多い。人は、他人や世界に何かを期待しているからこそ、その通りいかなかった時に怒ったりイライラしたりするものだ。怒りの背後をみれば、自分が人や世界に何を欲しているのかというのがよく理解できると思うし、それは、その希望を実現する第一歩となるだろう。
 
 実際のところ、人間というのは「本当に自分が欲しているものは何か」を知るのは意外と難しい。でも、それを知らないままに抱えている問題を解決しようとすると、よく分からない方に行ってしまう。問題を解決するのではなく、人を責めたり、解決とは程遠い選択をしてしまったり、何もせずにグルグルと他人や自分を責め続けるだけになってしまう。
 
 仕事を始めて5,6年の頃、当時、地方の病院に勤めていた私は、あるDrの理不尽さやモチベーションの低さに腹を立てることが多かった。あの頃は本当にピリピリしていたと思う。問題行動をよく起こす患者に対して、カンファレンスで「もうどうにもならないよ」と匙を投げる医師と、それに同調する幾人かのスタッフ。腹が立つ時というのは本当に、サッと頭に血が上り確実に血圧が上昇していくのが自分でもよく分かる。そういう瞬間を何度も味わったし、帰りの車の中で悔し涙を流したことも数知れなかった。
 
 ある日、病棟を歩きながらやはり憤懣やるかたない思いにかられていたとき、じゃあ私は何を望んでいるのだろう、と思った。「あの態度がひどい」「ああいった物言いは信じられない」と他者やシステムへの不満で満ちていたけれど、そうではなくて、私が理想とするものは一体どういうものなのだろう、と。
 
 わたしが理想とするもの。それは、1人1人が患者のためを思うこと、患者の問題行動に心を折らずに希望を担保すること、足りないものが多い環境だけれどその中で最善を尽くすこと、それぞれの専門性に敬意を払いながらお互いに出来ることを確実にしていくこと、などなど。実際に文章にすると陳腐で当たり前な、教科書に載っていそうなことだ。でも、わたしはその基本的で陳腐なものを理想としていたし心から欲していた。
 
 もちろん、これらのことは意識することはなくてもずっと心にあったものなのだけれど、意識的に気づいた時には何故だかとてもスッキリとした。「あーそうかそうか、わたしったらそうしたかったのか~、いじましいね、がんばったがんばった、うん、がんばった」と自分に対して労いの言葉まで浮かんできたりして何だか気持ちが落ち着いたのだ。
 
 そしてそれ以降、イライラが少し減った。不満やイライラよりも今、自分の理想が実現できている部分やどうやって実現していくのかという方向に目が向くようになった、と言った方がいいかもしれない。そういった理想を共有できるスタッフをますます大事にするようになったし、そうこうしているうちに同志のスタッフが増えていき、件のDrにも決して患者が嫌いなのではなくて、Dr自身も大変さを抱えていてどうしたらいいか分からないからこその言動だったのだ、という一歩引いた視線で見ることが出来るようになった。
 
 現状はまったく変わっておらず、単にわたしがどちらを向くのか、という方向性を少し変えただけだ。イライラと周囲を責める目で見続けるのか、怒りの背後にある自分の切実な願いや希望を見続けるのか。些細なことだけれど、時にそういった些細な違いが現実の見え方や、ありようまでも変えていくのだと思う。怒りの背後にある自分の期待を見つめるのは、自分が弱くなったような気がするし、その願いがあまりにも切実すぎて何とも悲しい気持ちになることもあるけれど、常にそこに返っていくようにしていきたい。