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世界を信じるというリスクについて

 勤めている精神科の病院ではデイケアというグループを担当している。デイケアというのは通院している人たちのためのグループ活動だ。レクリエーションを中心に行うものもあれば、復職のためのトレーニングや集団心理療法を行うものなどさまざまだ。
 
 わたしが行っているデイケアではテーマにそって意見交換や話し合いをすることがあるのだけれど、参加している患者さんの中で、いつもネガティヴな発言をする方がいる。彼女は何事も疑ってかかり、相手の言動を敵対的なものとみなす傾向があるのだ。そういった攻撃性はグループ参加者に向けられることはないのだが、病や障害をもつ自分たちを取り巻く世間一般に向けられる。
 
 そんな彼女のことを担当医は「世界に対する不信感で満ちている」と表現しており、まさにその通りだなと感じた。その医師は「他の参加者は一度裏切られた世間に対して、これから再び信用していこうとしているのに、彼女の発言でみんなが揺すぶられるのではないか」とも心配していた。デイケアの参加者は、病や障害によって社会参加を挫折したものの、これからまた社会に出ようしようとしている若者がほとんどであり、みんな多かれ少なかれ社会や世間に対する不安があるのだ。
 
 実際、彼女が他人を責めるような攻撃的発言をした後で、他の参加者たちが少し気まずそうにすることや、つられて同じように攻撃的・疑心暗鬼的な発言をすることがある。しかし、反対に、他の参加者たちの中立的な発言や、むしろ自分のことを責めがちな態度に彼女の方が影響されて自分の言動を反省することもある。こういった揺らぎを含めた相互交流がデイケアのたびに繰り返されるのだが、他の参加者たちの比較的穏やかな性質や、前向きな態度を選ぼうという意志が幸いして、これまでのところ、全体としては世界や他者を再び信じようという空気感がゆるやかに保たれている。このように、さまざまな性質をもつ人たちを含みこんで相互に影響しあい揺らぎながら全体を形成していく経過こそが、集団活動の良さであり、危険性でもあるのだろう。
 
 世界や他者を信じることは難しい。特に、世界や他者からつけられた傷が深ければなおさらだ。信じるというのは、いわば相手が豹変して傷つけてくるかもしれないというリスクをも引き受ける態度であり、一種の覚悟が含まれる。無防備な腹を先にこちらから晒すという覚悟。それは過去にうけた傷があれば恐ろしいことだろう。そう考えると、世間一般の多くの人が、時に裏切られたり悲しい思いをしつつも身近な人たちとの信頼などを糧にそこから回復し、それなりの信頼と不信の間を行きつ戻りつ世界や他者と関わっているのは、実はすごいことなのだなとつくづく思う。