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観念的なものが通用しない現実、というもの

 北海道にある、取り組みや理念がユニークかつ画期的なことで有名な精神疾患患者のための地域活動拠点「べてるの家」。その創立にかかわったソーシャルワーカーの向谷地さんの以下の言葉がとても好きで、初めて読んだ時からずっと覚えている。
 
学生時代までの私は、観念的に自分が正しくとか、自分を人間として磨いていこうという、ある種の高みへの欲求があったんです。ところが、どう観念的であろうと、弱く、うす汚れた、そしてみじめな現実が目のまえにあるわけです。言葉では言いあらわしがたい悲惨な現実、それには、こうあるべきだという観念的な発想は通用しない。だから、そうしたものをかなぐり捨てて、自分もいっしょになって取り組まざるをえなくなっていったんです。
 横川和夫「降りていく生き方 『べてるの家』が歩む、もうひとつの道」  
 
 うす汚れたみじめな現実、という言葉はややキツイ印象も与えるけれど、観念的なものが通用しない圧倒的な現実というものがあるのだ、ということだと思う。わたしは最初の臨床現場でそういった現実と出会った。
 
 わたしの初めての就職は地方の山村部(県内でも驚かれるほど田舎)の病院だったのだけれど、そこに転居するまでは「箱入り」を絵に描いたような、平和とそこそこの裕福さを享受するだけの人生を送っていた。そして、そういった平穏な人生にもかかわらず思春期からずっと観念的なアレコレや自意識に煩悶してきたような人間だった。ザ・世間知らず。
 
 そんなわたしが、夜は月明かりで歩くような山村の病院で体験したのは、脳や身体の損傷によって引き起こされた圧倒的な現実の数々だった。四肢麻痺、切断、認知機能障害、若年性アルツハイマー、閉じ込め症候群、アルコール中毒。胃瘻チューブ、人口呼吸器、よだれ糞尿、褥瘡に浮腫、不穏徘徊、暴力。エトセトラエトセトラ。
 
 頼むからナイフを持ってきてくれ、もう死ぬしかないとギラギラした目で訴える下肢切断の元暴力団員。四肢麻痺に加えて話すことも判断することもできなくなってしまった夫の横で妻が早口で話す、裁判の行方。病院の庭を車いすで散歩するたびに、うれしそうにキノコや山菜の取れる場所を教えてくれた四肢麻痺の女性。妻が40代で若年性アルツハイマーとなった夫が訥々と語る怒りと諦め。頭部外傷で何もかも変わってしまった自分に悪態をついて暴れ、外に飛び出ていった会社経営者。追いかけて走った田んぼ道で投げつけられた「俺はいったいどうなるんだ!」怒号と号泣。たくさんの、予想していたものとは異なってしまった人生。
 
 観念的なものが通用しない圧倒的現実。それを前にして当事者のみならず、医療従事者、支援者たちでさえ無力感に立ち尽くす。病院は生命維持や能力の向上はできても、その病や事故以前の人生に戻すことはできないのだ。病院の中で最も無力な支援者であったわたしは、その現実にただただ圧倒され、奔走するばかりだった。都会でぬくぬくと築き上げてきた観念的なアレコレや自意識、「わたしは物を考える方だ」という驕った自負は全く何の役にも立たず、学んできた専門知識でさえどう活かしていいのか分からなかった。
 
 観念的なものが通用しない現実を前に、例えいくら無力で非力であろうが言い訳をせずにただただ取り組む。そういう経験でしか得られない何かをわたしはあそこで身につけたように思う。
 
降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道