死、もしくは詩

 一番最初に死を意識したのはいつだろう。

 わたしの場合は小学生の頃、一人でシャワーを浴びていた時だ。シャワーの穴から延々とお湯が出てくるのを下からぼんやりと見上げていたら、急に時間というものや毎日というものがこれからも延々と連なっていくのだということをまざまざと実感し、その時間の連なりがもつ永遠にも思える長さと、それでもいつか来る終わりというものにゾッとした。今日、明日、来月、来年といった短いスパンでしか生きていなかったわたしが、これから続いていくであろう長い長い人生の重みと、その終結というものを始めて意識した瞬間だったのだと思う。

 死は怖い。

 人は日々の中でどのくらい死のことを考えるのだろう。わたしはやや生きることへの不安が高い上に白昼夢に陥りやすい人間なので、何でもない時にふと家族や大事な人が死ぬことや自分が死ぬことをこと細かに想像して怖くなる。普段、生きていることの意味はないと考えている割には、死ぬことへの恐怖は滑稽なほど強い。無になるのだ、無に。恐ろしい。

 今生きている人も皆いつかは死んで無になるのだという事実は、よくよく考えてみれば何とも恐ろしいことだけれど、大多数の人々はそういう過酷な現実がいつか身にふりかかることを知りつつも、普段はその事実をどこか意識の外において生活しているのだ(わたしも含め)。そういった、人間の無意識的な防衛のあり方はつくづく凄いものだなと思うけれど、こうやって見ないようにすることで何とか生きていけるという事実は誰の人生においてもたくさんあることなのだろう。

 しかし、メメント・モリ、だ。メメント・モリ。死を記憶せよ。

 別に「いつか来る死を忘れずにかけがえのない毎日を大切にしよう!」なんて思っているわけでもないのに、わたしはこの言葉が好きだ。メメント・モリ。死を意識することは、自分が生きている間に何をしたいのかに目を向けさせてくれる。

 わたしが人生でしたいことは、毎日を大切に過ごすことでも何かを成し遂げることでもない。わたしが生きているうちにやりたいことは、自分のもっているありとあらゆる本質を発揮し尽して死にたいということだ。その本質は、美しいものや純粋なものもあれば、醜くておぞましいものもあるだろう。でも、よいものも悪いものも全て、わたしをわたしたらしめている全ての本質を余すことなく展開して死にたいと思うのだ。例えそのせいで不幸になっても、何も成し遂げられなくても、想像を絶する孤独に終わってもいい。わたしはわたしの本質の全てを体験したい。そこからぶれないために何度も繰り返すのだ、メメント・モリメメント・モリ。わたしはいつか死ぬ。

 

「デッドマン」

デッドマン [DVD]

 胸を撃たれた1人の男性(ジョニー・デップ)が時間をかけて死へと至るイニシエーションにまつわる映画。ストーリーはあるようなないようなって感じだけれど、美しい映像と胸にひびく音楽、そしてたくさんの象徴に満ちている。電車での移動に始まり、カラーから白黒へ、動物たちの死、インディアンの儀式、死んだ詩人。

 人生で一番きつかった時に映画館で見たものなので、余計に思い入れが強い。

 

「眠る男」

眠る男 [VHS]

 群馬県が作ったというわりに、監督も出演者もしっかりとした映画。群馬の実に日本的で美しい自然の中で、死んだように眠り続ける男性と、それを取り巻く村の人々。静かな作品。

 

「バナナフィッシュにうってつけの日

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 サリンジャーのグラース家シリーズの短編。タイトルも目を引くけれど、最初に読んだときのインパクトが何とも大きい。世の中にはこんな風に訪れる死もきっと多いだろうなと。

 

おまけ

 自然の中で死ぬということを考えるときがあるので、この2冊を読んでみたい。

死―宮崎学写真集

死―宮崎学写真集

 
死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉

死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉

 

 

さみしくてかわいらしい孤独【絵】【南桂子】

ボヌール

 南桂子は友人から教えてもらって知った。15歳ほど年上の友人が南桂子の展覧会に行き「絶対好きだと思って」とポストカードを買ってきてくれたのだ。一目で好きになり、画集もその場で貸してもらったのを覚えている。

 さみしくて、かわいらしい、きれいな色彩の銅版画。拡がる空間と、そこにぽつねんと配置される木や少女。羊に魚。その空間は孤独を思わせるけれど、決してそれは陰鬱なものではない。透明で、静かな世界。深い海の底のような。心の奥の最も静かな場所のような。時がとまって、音もない、しんとした空間。

 いつかプライベートオフィスをもてたらこの人の絵を飾りたい。

 

 

ボヌール

ボヌール

 

 

光、もしくは祈り

 世界は美しいのよと人は言う。それはわたしも知っている。

 世界の優しさ美しさを知ってもなお暗い方へ暗い方へと進む心、というのがある。確実にある。人は優しいと知っていても、この世には信じるに値するものがあると分かっていても、自分の怒りや妬みや劣等感が押さえきれないほどに増幅し、たちまち相手が信じられなくなることがある。未来は白紙であり、だからこそ嘆きや絶望が永遠に続く確証もないのだと知ってはいても、自分の先行きには気が遠くなるほどの孤独と淋しさが待っているとしか思えないこともある。1人、1人、わたしは1人。惨め、惨め、わたしは惨め。絶え間ない自己嫌悪。救いようのない隔絶感。

 それでも私たちが生きているのは何故だろう。暗い道を歩きながらも、何とかこっち側でやろうともがいているのは何故だろう。それはきっと、心のどこかに世界の美しさの記憶があるからではないだろうか。光、もしくは祈り。そういう、ささやかで力のない、今にも消え入りそうな、でも確実にそこにある美しさ。

 それはあの日の笑顔かもしれないし、なんてことのない台詞かもしれない。エンドレスで聞き続けた音楽かもしれないし、ボロボロになるまで読んだ書物の中の一節かもしれない。そういった、何か、世界の美しさを象徴する記憶。それらは意識の中に、無意識の中に、ひっそりと積み重なり、私たちが暗い道を歩いているときにふと遠くで静かに光る。光、もしくは祈り。か細く非力なクモの糸。

 
 

しろいうさぎとくろいうさぎ

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

 黒いうさぎのあの願いが、大人になったわたしたちの心を抉る。
 未来は予測不可能で、わたしたちにはどうしようも出来ないことがあるという不安や恐怖(その最たるものは「死」なのだろう)。それらに押しつぶされんばかりの心が耐え切れずに絞り出すのがあの願いごとだ。
 白うさぎの返答が決して真実ではないことを私たちは知っているけれど、でも重要なのはそれが真実かどうかではないのだ、ということも知っている。黒うさぎを安心させるのは言葉そのものではない。不安な心がすがる願いに対して、「いつまでもなんてムリ」と否定するのでなく、「例え現実的にムリであってもわたしもそうでありたい」という意志を示す白うさぎの姿勢そのものが黒うさぎを安心させるのだ。この素朴な不安と素朴なひたむきさ。何度読んでも泣ける本。 
 

 

 

「FOLKLORE」

 
 美しさの結晶。60分35秒の光。 
 
 

鉄コン筋クリート」 

鉄コン筋クリート 1 (小学館文庫 まC 5)

 「あんしん、あんしん」なんてことは全然ない世の中であることを十分すぎるほど知っているのだけれど、だからこそクロには(私たちには)ニコニコと笑うシロが必要なのだ。やさしさの象徴。
 

観念的なものが通用しない現実、というもの

 北海道にある、取り組みや理念がユニークかつ画期的なことで有名な精神疾患患者のための地域活動拠点「べてるの家」。その創立にかかわったソーシャルワーカーの向谷地さんの以下の言葉がとても好きで、初めて読んだ時からずっと覚えている。
 
学生時代までの私は、観念的に自分が正しくとか、自分を人間として磨いていこうという、ある種の高みへの欲求があったんです。ところが、どう観念的であろうと、弱く、うす汚れた、そしてみじめな現実が目のまえにあるわけです。言葉では言いあらわしがたい悲惨な現実、それには、こうあるべきだという観念的な発想は通用しない。だから、そうしたものをかなぐり捨てて、自分もいっしょになって取り組まざるをえなくなっていったんです。
 横川和夫「降りていく生き方 『べてるの家』が歩む、もうひとつの道」  
 
 うす汚れたみじめな現実、という言葉はややキツイ印象も与えるけれど、観念的なものが通用しない圧倒的な現実というものがあるのだ、ということだと思う。わたしは最初の臨床現場でそういった現実と出会った。
 
 わたしの初めての就職は地方の山村部(県内でも驚かれるほど田舎)の病院だったのだけれど、そこに転居するまでは「箱入り」を絵に描いたような、平和とそこそこの裕福さを享受するだけの人生を送っていた。そして、そういった平穏な人生にもかかわらず思春期からずっと観念的なアレコレや自意識に煩悶してきたような人間だった。ザ・世間知らず。
 
 そんなわたしが、夜は月明かりで歩くような山村の病院で体験したのは、脳や身体の損傷によって引き起こされた圧倒的な現実の数々だった。四肢麻痺、切断、認知機能障害、若年性アルツハイマー、閉じ込め症候群、アルコール中毒。胃瘻チューブ、人口呼吸器、よだれ糞尿、褥瘡に浮腫、不穏徘徊、暴力。エトセトラエトセトラ。
 
 頼むからナイフを持ってきてくれ、もう死ぬしかないとギラギラした目で訴える下肢切断の元暴力団員。四肢麻痺に加えて話すことも判断することもできなくなってしまった夫の横で妻が早口で話す、裁判の行方。病院の庭を車いすで散歩するたびに、うれしそうにキノコや山菜の取れる場所を教えてくれた四肢麻痺の女性。妻が40代で若年性アルツハイマーとなった夫が訥々と語る怒りと諦め。頭部外傷で何もかも変わってしまった自分に悪態をついて暴れ、外に飛び出ていった会社経営者。追いかけて走った田んぼ道で投げつけられた「俺はいったいどうなるんだ!」怒号と号泣。たくさんの、予想していたものとは異なってしまった人生。
 
 観念的なものが通用しない圧倒的現実。それを前にして当事者のみならず、医療従事者、支援者たちでさえ無力感に立ち尽くす。病院は生命維持や能力の向上はできても、その病や事故以前の人生に戻すことはできないのだ。病院の中で最も無力な支援者であったわたしは、その現実にただただ圧倒され、奔走するばかりだった。都会でぬくぬくと築き上げてきた観念的なアレコレや自意識、「わたしは物を考える方だ」という驕った自負は全く何の役にも立たず、学んできた専門知識でさえどう活かしていいのか分からなかった。
 
 観念的なものが通用しない現実を前に、例えいくら無力で非力であろうが言い訳をせずにただただ取り組む。そういう経験でしか得られない何かをわたしはあそこで身につけたように思う。
 
降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

 

 

暗澹たる圧倒的現実を知れ

 「世の中には2種類の人間しかいない。貧困を知る者とそうでない者だ」。という言葉があるかどうかは知らないけれど、あってもおかしくないんじゃないか、とか思う。

 うちの親族は貧困を知らない。そしてわたしも貧困を体験したことはないのだが、仕事では貧困にある人に接することがある。ただ、仕事が仕事なので、生活保護はもちろんだけれど、大体はその貧困の影に病気や障害、虐待や育児放棄といった家庭環境が見え隠れするケースがほとんどだ。また、都心部でも地方でも、問題が生じて医療にかかるまで、必要な医療にも福祉にも全繋がっていないような、一体これまでどうしてきの?!と言いたくなるようなケースも少なくない。

 少し話がずれたが、親族と話していて痛感するのは、貧困を知らない人たちに貧困を伝えることの難しさだ。貧困を知らない人たちは、そこまで壮絶な貧困があるということ自体をうまくイメージ出来ないし、いくら伝えても全くリアリティーを持てない。当たり前だ。自分の身に起こるとは思えないのだから。直接言葉を交わすこともないのだから。その姿、その視線、その語りを体験することがないのだから。

 貧困の果てに起こった痛ましい事件のニュースやわたしが話す貧困の例を聞くと、彼らは眉をしかめて同情する。「それは可哀想ね」「そういう人たちもいるんだな」。でもそれだけ、それだけだ。別にそれが悪いとは言わない。惡とは言わない。ただ、貧困にある層と貧困を知らない層の壁はとても厚いと実感する

 世の中にはにはどんな不幸でも起こりうる。しかし、私たちの想像力はそれこそ貧困だ。何の情報もなしに、世の中に今どんな不幸が存在するのかなんて知る由もない。それを知ってどうする?という声もあろう。悲劇を知ってどうする、不幸を知ってどうする。どうにも出来ないことならば、別の世界のことならば、別に知らなくても良いだろう、と

 しかし、こういう現実というのは1人でも多くの人が知ることというのが大事だし、ぶっちゃけ知ることからしか始まらないのではないだろうか。それを知って何をするわけでなくてもいい。募金をしなくてもいいしボランティアをしなくてもいいし、毎日胸を痛めなくてもいい。ただ、まずは「想像もできないような現実がある」と知ること、0を1にすることが意味を持つと思う。どんな差別も苦悩も、それを知る人が少しでも増えなければ何も変わらない。
 

闇金ウシジマくん

闇金ウシジマくん 1 (ビッグコミックス) 

 貧困とか抜きにしても普通におもしろい漫画。あれよあれよという間に身を崩して貧困の底辺に落ちていく現代人のさまざまなパターンが網羅されている。

 

「最貧困女子」

最貧困女子 (幻冬舎新書)

 これは多くの人に読んでほしい良書。貧乏と貧困は違う、とはあるけれどその通りだ。貧乏は「貧乏でも楽し」といった「金が無いなりのQOL(クオリティオブライフ;生活の質のこと)」を高めることができるが、貧困は違う。そういった質とか楽しみといった概念はこうべを垂れてすごすごと退場するしかないような圧倒的な過酷さがある。
 また、著者は、人は低所得に加えて「3つの無縁(家庭の無煙・地域の無縁・制度の無縁)」「3つの障害(精神障害発達障害・知的障害)」から貧困に陥ると述べているのだけれど、後者の3つの無縁については、確かに精神科臨床の現場にいるものとして納得がいく。障害によって安定した就業が難しく、加えて支援への繋がりにくさもあるために結果的に前者の「3つの無縁」を引き起こしやすい実態があるのだ。
 

「ギャングース」

ギャングース(1)

 「最貧困女子」の著者が原作をしている漫画。「最貧困女子」が貧困女子についてならば、こちらは男子版とでも言おうか。ただ、漫画はどちらかというと犯罪漫画という感じ。犯罪の裏事情とか豆知識がたくさんで、オレオレ詐欺とかいった昨今の犯罪の裏はこんな風になっているのかー、と普通に興味深く読める。また主人公のキャラがいいし、「ウシジマくん」ほど後味悪くない。

追記

 「最貧困女子」の著者は対策案もいくつか提示しているが、そこにあった「夜もやっている学童」に近いものを実践しているNPOはすでにあるみたい。でも対象年齢はちょっと高めなのかな。
 

www.colabo-official.net

 

 

 

物語における理不尽な死が好きだ

 物語における理不尽な死が好きだ。1人1人の個別性も尊厳性もなく惨めに虫けらのように殺される、そんな死が大好きだ。
 
 それは私たちに普段はキレイに隠されているこの世界の無慈悲さを思い出させる。私たちは誰だって何も意味も大義もなく簡単に死んでしまう存在なのだ。いくら高尚なことを考えていたって、どんな偉業を成し遂げていたって、私たちの肉体はとても脆く世界はとても残酷で、死ぬときはもうあっけないくらいに簡単に死んでしまう。その無常さをあっさりと描いてくれる、そんな残虐な物語が大好きだ。
 
 理不尽な死の前で繰り広げられる、運命に抗おうとする無駄な努力や奇跡を願う祈り。そういった人間の営みのいじましさと力強さ。死と対比されると人間の営み全て、弱いものも醜いものも含めた全てがかけがえのない厳かなものに思えてくる。
 
かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好むのが人間です。でも世の中すべてがそういう美しいもので満たされているわけではなく、むしろ美しくないもののほうが多かったりすることを、人は成長しながら学んでいきます。この世の中には醜いものや汚いものがあり、人間の中にも残酷なことをする人がいる。
 
まだ幼い少年少女には想像もできないほど過酷な部分が現実の世の中にはあって、それを体験しつつ、傷つきながら人は成長していく。現実の世界はきれいごとだけではすまないことを誰でもいずれ、学んでいかざるをえない。何しろ極端な場合は、頭に隕石がぶつかって死ぬような不条理なことだってありうるわけですから。
 
でも世界のそういう醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いてみることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。<中略>窮極の恐怖である死さえも難なく描いてみせる、登場人物たちにとって「もっとも不幸な映画」がホラー映画であるとだから少年少女たちが人生の醜い部分、世界の汚い面に向き合うための予行練習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。もちろん少年少女に限らず、この「予行練習」は大人にとってさえ有効でありうるはずです。
 荒木飛呂彦荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」p.15-17
荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

 

 

 ということで、人が不条理にたくさん死んでいくメジャー漫画3つ。説明はいらないですね。

GANTZ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) 

進撃の巨人(16) (講談社コミックス)

アイアムアヒーロー 17 (ビッグコミックス)

  「進撃の巨人」はなんか小難しくなってきちゃったけど、「アイアムアヒーロー」は何というかあの予断を許さない展開が好きです。
 
 

こんにちは中二【中二の教科書3点】

 【中二】もしくは【厨二】

 捩じ切れる自意識と孤独の中、ただただ無限に劣等感を膨らませる暗黒の時代。己の力を過信して周囲を蔑みあげつらい、その倍以上に己を憎む。性と死を渇望しながらも大半のものを拒絶する。命をかけた自己陶酔。疾風怒濤の季節。
 
中二になったばかりの5月のある朝、わたしはいつものように家を出て学校に向かい、途中で公園のトイレに立ち寄り、制服を脱いで用意してきた私服に着替えると、ABCマートの袋に脱いだ制服を入れて個室に放置し、そのまま東京駅に向かった。過保護な家庭で育ったわたしは一人で電車に乗るのもましてや東京駅に行くのも新幹線に乗るのも初めてだった。だから事前に買った時刻表で確認したはずの新幹線の値段が思ったよりも高くて、行きの分しか切符が買えなかったのも仕方がない。何もかも初めてだったのだから仕方ない。駅員の示した金額を見てわたしは「あ、帰れなくなる」と思ったがそれ以上は深く考えないままお金を払い、数か月分のお小遣いと引き換えに手に入れたその切符を片手にホームに向かった。新幹線に乗って名古屋まで向かう間、聴いていたのは当時大好きだったユニコーンの歌だった。「届かない身動きも出来ないひとかけらの夢崩れてく」初期の頃のやや陳腐な恋の歌。別に失恋したわけでも何でもないのに恋の歌を聴きながら家出をしたのは何故だろう。でもいまだにあのフレーズは覚えてる。届かない身動きも出来ないひとかけらの夢崩れてく。
 
 ということで、中二的心性の個人的かつ古典的神3名。
 

太宰治

人間失格 (集英社文庫)

 太宰を中二に読まずしていつ読む!という本であることは満場一致と思うのだけれどどうだろう。合わない人には全く合わないようだけれど、合う人にとっては泥沼のような人生の救世主と思えるはず。そして「自分のことをこんなに分かってくれるのはこの人だけだ」からの、「彼のことを最もよく分かるのも自分だけだ」になるまでがお約束。そのくらい心酔したっていいじゃないか14歳だもの。
 

中原中也

 汚れつちまつた悲しみに…―中原中也詩集 (集英社文庫)
「汚れちまった悲しみ」という悩殺フレーズを中二殺しと言わずして何と言おう。ぜひ全国の中二の皆さんには14歳の誕生日の日にこれを暗記してもらいたい。全く汚れていないのが大半で、むしろ汚れたくても汚れられないのが悩みである14歳だけれど、それでも自分が最も汚れているとしか思えなくて、それを隠すために周囲こそが汚れきっているのだと思うのもまた14歳なのだ。
 

寺山修司

書を捨てよ、町へ出よう 角川文庫

 「書を捨てよ!街へ出よう!」「家出のすすめ」「時には母のない子のように」などなど、わたしが中二党を作るとしたら絶対キャッチコピーとしてデラデラとしたフォントの赤文字でポスターに激しく書き連ねたい言葉が多数。著作で慣れたら次は映画を見ましょう。サブカルな人になれた気がします。
 ちなみに青森は八戸の寺山修司記念館は館長さんがやさしいし、展示も寺山修司的世界で素敵なので大人になったら行くと良いよ。