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さみしくてかわいらしい孤独【絵】【南桂子】

ボヌール

 南桂子は友人から教えてもらって知った。15歳ほど年上の友人が南桂子の展覧会に行き「絶対好きだと思って」とポストカードを買ってきてくれたのだ。一目で好きになり、画集もその場で貸してもらったのを覚えている。
 さみしくて、かわいらしい、きれいな色彩の銅版画。拡がる空間と、そこにぽつねんと配置される木や少女。羊に魚。その空間は孤独を思わせるけれど、決してそれは陰鬱なものではない。透明で、静かな世界。深い海の底のような。心の奥の最も静かな場所のような。時がとまって、音もない、しんとした空間。
 
 いつかプライベートオフィスをもてたらこの人の絵を飾りたい。
 

 

ボヌール

ボヌール

 

 

切実な希望を見つめ続けること

 怒りは二次的な感情、とよく言われる。
 
 個人的な体験としては、怒りは期待や希望の反映だと感じることが多い。人は、他人や世界に何かを期待しているからこそ、その通りいかなかった時に怒ったりイライラしたりするものだ。怒りの背後をみれば、自分が人や世界に何を欲しているのかというのがよく理解できると思うし、それは、その希望を実現する第一歩となるだろう。
 
 実際のところ、人間というのは「本当に自分が欲しているものは何か」を知るのは意外と難しい。でも、それを知らないままに抱えている問題を解決しようとすると、よく分からない方に行ってしまう。問題を解決するのではなく、人を責めたり、解決とは程遠い選択をしてしまったり、何もせずにグルグルと他人や自分を責め続けるだけになってしまう。
 
 仕事を始めて5,6年の頃、当時、地方の病院に勤めていた私は、あるDrの理不尽さやモチベーションの低さに腹を立てることが多かった。あの頃は本当にピリピリしていたと思う。問題行動をよく起こす患者に対して、カンファレンスで「もうどうにもならないよ」と匙を投げる医師と、それに同調する幾人かのスタッフ。腹が立つ時というのは本当に、サッと頭に血が上り確実に血圧が上昇していくのが自分でもよく分かる。そういう瞬間を何度も味わったし、帰りの車の中で悔し涙を流したことも数知れなかった。
 
 ある日、病棟を歩きながらやはり憤懣やるかたない思いにかられていたとき、じゃあ私は何を望んでいるのだろう、と思った。「あの態度がひどい」「ああいった物言いは信じられない」と他者やシステムへの不満で満ちていたけれど、そうではなくて、私が理想とするものは一体どういうものなのだろう、と。
 
 わたしが理想とするもの。それは、1人1人が患者のためを思うこと、患者の問題行動に心を折らずに希望を担保すること、足りないものが多い環境だけれどその中で最善を尽くすこと、それぞれの専門性に敬意を払いながらお互いに出来ることを確実にしていくこと、などなど。実際に文章にすると陳腐で当たり前な、教科書に載っていそうなことだ。でも、わたしはその基本的で陳腐なものを理想としていたし心から欲していた。
 
 もちろん、これらのことは意識することはなくてもずっと心にあったものなのだけれど、意識的に気づいた時には何故だかとてもスッキリとした。「あーそうかそうか、わたしったらそうしたかったのか~、いじましいね、がんばったがんばった、うん、がんばった」と自分に対して労いの言葉まで浮かんできたりして何だか気持ちが落ち着いたのだ。
 
 そしてそれ以降、イライラが少し減った。不満やイライラよりも今、自分の理想が実現できている部分やどうやって実現していくのかという方向に目が向くようになった、と言った方がいいかもしれない。そういった理想を共有できるスタッフをますます大事にするようになったし、そうこうしているうちに同志のスタッフが増えていき、件のDrにも決して患者が嫌いなのではなくて、Dr自身も大変さを抱えていてどうしたらいいか分からないからこその言動だったのだ、という一歩引いた視線で見ることが出来るようになった。
 
 現状はまったく変わっておらず、単にわたしがどちらを向くのか、という方向性を少し変えただけだ。イライラと周囲を責める目で見続けるのか、怒りの背後にある自分の切実な願いや希望を見続けるのか。些細なことだけれど、時にそういった些細な違いが現実の見え方や、ありようまでも変えていくのだと思う。怒りの背後にある自分の期待を見つめるのは、自分が弱くなったような気がするし、その願いがあまりにも切実すぎて何とも悲しい気持ちになることもあるけれど、常にそこに返っていくようにしていきたい。
 

光、もしくは祈り

漫画 音楽

 世界は美しいのよと人は言う。それはわたしも知っている。

 世界の優しさ美しさを知ってもなお暗い方へ暗い方へと進む心、というのがある。確実にある。人は優しいと知っていても、この世には信じるに値するものがあると分かっていても、自分の怒りや妬みや劣等感が押さえきれないほどに増幅し、たちまち相手が信じられなくなることがある。未来は白紙であり、だからこそ嘆きや絶望が永遠に続く確証もないのだと知ってはいても、自分の先行きには気が遠くなるほどの孤独と淋しさが待っているとしか思えないこともある。1人、1人、わたしは1人。惨め、惨め、わたしは惨め。絶え間ない自己嫌悪。救いようのない隔絶感。

 それでも私たちが生きているのは何故だろう。暗い道を歩きながらも、何とかこっち側でやろうともがいているのは何故だろう。それはきっと、心のどこかに世界の美しさの記憶があるからではないだろうか。光、もしくは祈り。そういう、ささやかで力のない、今にも消え入りそうな、でも確実にそこにある美しさ。

 それはあの日の笑顔かもしれないし、なんてことのない台詞かもしれない。エンドレスで聞き続けた音楽かもしれないし、ボロボロになるまで読んだ書物の中の一節かもしれない。そういった、何か、世界の美しさを象徴する記憶。それらは意識の中に、無意識の中に、ひっそりと積み重なり、私たちが暗い道を歩いているときにふと遠くで静かに光る。光、もしくは祈り。か細く非力なクモの糸。

 

しろいうさぎとくろいうさぎ

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

 黒いうさぎのあの願いが、大人になったわたしたちの心を抉る。
 未来は予測不可能で、わたしたちにはどうしようも出来ないことがあるという不安や恐怖(その最たるものは「死」なのだろう)。それらに押しつぶされんばかりの心が耐え切れずに絞り出すのがあの願いごとだ。
 白うさぎの返答が決して真実ではないことを私たちは知っているけれど、でも重要なのはそれが真実かどうかではないのだ、ということも知っている。黒うさぎを安心させるのは言葉そのものではない。不安な心がすがる願いに対して、「いつまでもなんてムリ」と否定するのでなく、「例え現実的にムリであってもわたしもそうでありたい」という意志を示す白うさぎの姿勢そのものが黒うさぎを安心させるのだ。この素朴な不安と素朴なひたむきさ。何度読んでも泣ける本。
 

 

「FOLKLORE」

 
 美しさの結晶。60分35秒の光。 
 

鉄コン筋クリート

鉄コン筋クリート 1 (小学館文庫 まC 5)

 「あんしん、あんしん」なんてことは全然ない世の中であることを十分すぎるほど知っているのだけれど、だからこそクロには(私たちには)ニコニコと笑うシロが必要なのだ。やさしさの象徴。
 

世界を信じるというリスクについて

 勤めている精神科の病院ではデイケアというグループを担当している。デイケアというのは通院している人たちのためのグループ活動だ。レクリエーションを中心に行うものもあれば、復職のためのトレーニングや集団心理療法を行うものなどさまざまだ。
 
 わたしが行っているデイケアではテーマにそって意見交換や話し合いをすることがあるのだけれど、参加している患者さんの中で、いつもネガティヴな発言をする方がいる。彼女は何事も疑ってかかり、相手の言動を敵対的なものとみなす傾向があるのだ。そういった攻撃性はグループ参加者に向けられることはないのだが、病や障害をもつ自分たちを取り巻く世間一般に向けられる。
 
 そんな彼女のことを担当医は「世界に対する不信感で満ちている」と表現しており、まさにその通りだなと感じた。その医師は「他の参加者は一度裏切られた世間に対して、これから再び信用していこうとしているのに、彼女の発言でみんなが揺すぶられるのではないか」とも心配していた。デイケアの参加者は、病や障害によって社会参加を挫折したものの、これからまた社会に出ようしようとしている若者がほとんどであり、みんな多かれ少なかれ社会や世間に対する不安があるのだ。
 
 実際、彼女が他人を責めるような攻撃的発言をした後で、他の参加者たちが少し気まずそうにすることや、つられて同じように攻撃的・疑心暗鬼的な発言をすることがある。しかし、反対に、他の参加者たちの中立的な発言や、むしろ自分のことを責めがちな態度に彼女の方が影響されて自分の言動を反省することもある。こういった揺らぎを含めた相互交流がデイケアのたびに繰り返されるのだが、他の参加者たちの比較的穏やかな性質や、前向きな態度を選ぼうという意志が幸いして、これまでのところ、全体としては世界や他者を再び信じようという空気感がゆるやかに保たれている。このように、さまざまな性質をもつ人たちを含みこんで相互に影響しあい揺らぎながら全体を形成していく経過こそが、集団活動の良さであり、危険性でもあるのだろう。
 
 世界や他者を信じることは難しい。特に、世界や他者からつけられた傷が深ければなおさらだ。信じるというのは、いわば相手が豹変して傷つけてくるかもしれないというリスクをも引き受ける態度であり、一種の覚悟が含まれる。無防備な腹を先にこちらから晒すという覚悟。それは過去にうけた傷があれば恐ろしいことだろう。そう考えると、世間一般の多くの人が、時に裏切られたり悲しい思いをしつつも身近な人たちとの信頼などを糧にそこから回復し、それなりの信頼と不信の間を行きつ戻りつ世界や他者と関わっているのは、実はすごいことなのだなとつくづく思う。
 

観念的なものが通用しない現実、というもの

 北海道にある、取り組みや理念がユニークかつ画期的なことで有名な精神疾患患者のための地域活動拠点「べてるの家」。その創立にかかわったソーシャルワーカーの向谷地さんの以下の言葉がとても好きで、初めて読んだ時からずっと覚えている。
 
学生時代までの私は、観念的に自分が正しくとか、自分を人間として磨いていこうという、ある種の高みへの欲求があったんです。ところが、どう観念的であろうと、弱く、うす汚れた、そしてみじめな現実が目のまえにあるわけです。言葉では言いあらわしがたい悲惨な現実、それには、こうあるべきだという観念的な発想は通用しない。だから、そうしたものをかなぐり捨てて、自分もいっしょになって取り組まざるをえなくなっていったんです。
 横川和夫「降りていく生き方 『べてるの家』が歩む、もうひとつの道」  
 
 うす汚れたみじめな現実、という言葉はややキツイ印象も与えるけれど、観念的なものが通用しない圧倒的な現実というものがあるのだ、ということだと思う。わたしは最初の臨床現場でそういった現実と出会った。
 
 わたしの初めての就職は地方の山村部(県内でも驚かれるほど田舎)の病院だったのだけれど、そこに転居するまでは「箱入り」を絵に描いたような、平和とそこそこの裕福さを享受するだけの人生を送っていた。そして、そういった平穏な人生にもかかわらず思春期からずっと観念的なアレコレや自意識に煩悶してきたような人間だった。ザ・世間知らず。
 
 そんなわたしが、夜は月明かりで歩くような山村の病院で体験したのは、脳や身体の損傷によって引き起こされた圧倒的な現実の数々だった。四肢麻痺、切断、認知機能障害、若年性アルツハイマー、閉じ込め症候群、アルコール中毒。胃瘻チューブ、人口呼吸器、よだれ糞尿、褥瘡に浮腫、不穏徘徊、暴力。エトセトラエトセトラ。
 
 頼むからナイフを持ってきてくれ、もう死ぬしかないとギラギラした目で訴える下肢切断の元暴力団員。四肢麻痺に加えて話すことも判断することもできなくなってしまった夫の横で妻が早口で話す、裁判の行方。病院の庭を車いすで散歩するたびに、うれしそうにキノコや山菜の取れる場所を教えてくれた四肢麻痺の女性。妻が40代で若年性アルツハイマーとなった夫が訥々と語る怒りと諦め。頭部外傷で何もかも変わってしまった自分に悪態をついて暴れ、外に飛び出ていった会社経営者。追いかけて走った田んぼ道で投げつけられた「俺はいったいどうなるんだ!」怒号と号泣。たくさんの、予想していたものとは異なってしまった人生。
 
 観念的なものが通用しない圧倒的現実。それを前にして当事者のみならず、医療従事者、支援者たちでさえ無力感に立ち尽くす。病院は生命維持や能力の向上はできても、その病や事故以前の人生に戻すことはできないのだ。病院の中で最も無力な支援者であったわたしは、その現実にただただ圧倒され、奔走するばかりだった。都会でぬくぬくと築き上げてきた観念的なアレコレや自意識、「わたしは物を考える方だ」という驕った自負は全く何の役にも立たず、学んできた専門知識でさえどう活かしていいのか分からなかった。
 
 観念的なものが通用しない現実を前に、例えいくら無力で非力であろうが言い訳をせずにただただ取り組む。そういう経験でしか得られない何かをわたしはあそこで身につけたように思う。
 
降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道

 

 

ソマティック・マーカーのことなど

 情報処理されているけれど意識にあがらないもの、についてはもう1つおもしろい実験がある。

 「ギャンブリング課題」というもので、文字通りギャンブルをやってもらう実験だ。4つのカードの山から 1枚ずつカードをめくり,そこに書かれている数字に従って手持ちのコインが増えたり減ったりする、という単純なギャンブルを被験者にやってもらう。4つの山のうち2つ(「損するデッキ」とする)は一見、大きなお金を手に入れるチャンスが多いように見えるが、長期的にはマイナスの方が多くなるようになっており、残り2つ(「よいデッキ」とする)は一見地味な額のカードしかないが、長期的には少しずつもうけられるようなカードで構成されている。

 これを健康な人と、脳(前頭葉)に損傷を受けた人にやってもらうのだけれど、健康な人の場合、何十回と行っていると「よいデッキ」を選んだ方が得であることに気づくらしい。

 しかし面白いのは「よいデッキの方がもうかる」とハッキリと意識するよりも前に、「よいデッキ」を選ぶことが増え、しかも皮膚電機反応においても「よいデッキ」を選ぶときと「損するデッキ」を選ぶときとで変化が生じる(「損するデッキ」を選ぶ時の方がストレスが高くなる)という点だ。つまり、意識的にデッキの違いに気づく前に、すでに身体反応レベルで変化が生じており、しかも行動レベルでも正しい方を選択することが増えているということになる*1

 この結果をもとに、実験者であるダマシオは「人は何か意識的な選択や判断をする前に、まず身体的・生理的反応が起こり、その情報をもとに対象についての価値づけや判断が無意識的に行われる段階がある」と考えたそれが「ソマティック・マーカー」。ソマティック=身体的、という意味なので、いわば身体的な刻印。*2

 つまり、このギャンブル課題ならば、損するデッキを選んだ際の「損」もしくは「不快」という身体的反応(皮膚電気反応に表されるような発汗など)は繰り返されるうちに刻印として身体に残り、そして、ついには同じ選択をする時に再現されるようになる。その時、人はその再現された身体的反応をもとに、その選択に対する「イヤな感じ」を無意識的に察知し、選択を回避するようになるというわけだ。

 わたしたちが何かを選択したり決断する時というのは、いろいろな条件を考慮して合理的、論理的に決断を下しているのではなく、このように、それまでの経験の積み重ねに基づいた身体知、経験知というものに大きく左右されているし、その精度もそこそこ妥当なものなのだろう。よく「経験知」や「達人の直感」なんて言ったりして、ややもすると眉唾モノの扱いを受けたりもするけれどそうではなくて、「達人の直感」なんていうのはそれこそ、ソマティック・マーカーの膨大な集積によるものであったりするのかもしれない。

 この実験はいろいろ批判もあるようだけれど,人の無意識や予感といったものを神経学的なものと関連付けた、非常に興味のそそられる話だと思う。

 

 ↓ソマティック・マーカーについて書かれている本。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:*ちなみに前頭葉を損傷した人たちは、損するデッキを選ばない方がいいと頭で分かっても損するデッキを選び続け、皮膚電気反応の変化も生じない。このように長期的な展望に基づいて適切な判断ができなくなるのは、前頭葉損傷後に多くみられる後遺症「社会的行動障害」の1つといわれている。

*2:*この「身体的・生理的反応に基づいた価値づけ」というのは「情動」ということになる。ソマティック・マーカーは「論理的、合理的、意識的な選択をする以前に無意識下で行われている情動に基づいた価値判断」ともいえる。

「音のない音」を聴くということ

 合気道のお稽古で呼吸法に入る前の精神統一のときに、「音のない音に耳を傾ける」と先生が言われることがある。音のない音。
 
 始めてこの「音のない音」という言葉を聞いたとき、前回の選択実験の話を思い出した。
 もしかしたら、わたしたちが「音のない音」を聴こうと決めて身体にそれを命令するとき、わたしたちは本当に「音のない音」を聞いているのではないだろうか。ただ、その情報や過程が意識の上にあがらないだけで、わたしたちの身体は、耳は、皮膚は、脳は、実際に「音のない音」を感覚情報として受信し、その情報は脳で処理され、そして何らかの影響を身体や思考に与えているのではないだろうか。
 選択実験の「意識にあがらない情報処理がある」という結果をふまえると、この「音のない音」もとてもリアルなものに感じられてくる。
 
 「目には見えているけれど認識できないもの」「情報処理はされているけれど意識にあがらないもの」が実際にあるのだと知るといろいろな可能性が考えられておもしろい。世界にはまだまだわたしたちの認識していること以上の物事があるのかもしれない、そんな風に思えてくる。
 
修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

 

 ちなみに合気道始めたのはこの方の影響だったりする…。